仏教の考え方では「因縁」という言葉が重要な意味合いを持っているようだ。
ネット検索では次のようになっている。
因果
1 原因と結果。また、その関係。
2 仏語。前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。特に、前世あるいは過去の悪業 (あくごう) の報いとして現在の不幸があるとする考え。「親の因果が子に報い」
因縁
1 仏語。物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こると説く。
2 前世から定まった運命。宿命。「出会ったのも何かの因縁だろう」
3 以前からの関係。ゆかり。「父の代から因縁の深い土地」
4 物事の起こり。由来。理由。「いわれ因縁」「因縁話」
5 言いがかり。
「因果」という言葉は、原因と結果として、科学技術の分野でも普通に使用されている。英語でも、Cause-Effect という表現で頻繁に使用されている。
一方、因縁という言葉は、科学技術の分野ではほとんど使われない。あまり科学的でない感覚がある。普通多くの場合、あまりいい語感では使われていない。インネンをつけられる、などいやな場面が想像される。
因果という場合、因は、原因であり、果はそれに基づいた結果である。それらがセットで原因と結果として使われる。それに対し、因縁の縁は、原因を取り巻く状況、環境、成り行きといった位置関係にある。結果、果に至る前の状態である。仏教では、Negativeな感覚はなく、えにし(縁)という広い意味で使われるようだ。
人間関係について、考えてみよう。
因は、自分自身 、主体であると考える。果、結果は、自分と特定の人の関係性の状態と対応づけられる。人間関係資産論でいうと、自分とある特定の相手の間で定めた「友好度」がいくつかということになる。
縁は、自分と特定の相手の関係性が友好度で表されるにいたった、あらゆる要因、出来事などに対応する。自分とその人との現在の関係に至るまでには、多くの要因・経緯があったはずだ。たとえば、無数の人の中で、その人が選ばれたことの偶然や必然があり、いわゆる縁があると思われる。その人と同じ人間関係ドメインにいることも、何らかの縁といえる。同じ学校に入って同級生になったとしたら、まさに、それは縁であるということは、普通に理解できる感覚である。そして、それらに基づいて、その人との関係性が時間をかけて築かれ、結果として現在の友好度に至るということである。
こう考えると、昔からいう、「縁は異なもの味なもの」、「合縁奇縁」といった表現は、このあたりの機微をうまく表現したと理解できる。
この全体図のイメージを図示すると下図のようになる。
(2018/1/7追記)