コロナ禍は、本当に一過性で終わることができるのか?
未来予測や将来予測は、当たるかどうかは分からないものである。人間の知恵は、こういう課題に立ち向かう度に、過去の経験こそが拠り所とすることが多い。染み付いた自分の体験、驚き、反省、たまたまの成功体験など、どれも、過去の体験、感覚に基づいているのだ。声の大きい人ほど、その傾向が大きい。
つまり、個々の人間の体験を基本にして、声の大きい個人の考えが、次の時代の予測をリードする。その時、考えの正当性を確保、担保するのは、自らまたは社会的に共有される過去の経験に基づくことがほとんどの場合である。
人間の考えの多くは、特にまだ見えない将来の予測をする場合に関わらず、自分の経験をベースに置くことが多くなり、それ自体が他の人の共感を呼び出す根拠になる。
しかし、ここには、環境全部を含めた視点が欠如する危険性がある。いわば、感情と理性(客観性)のバランスが崩ている状態でもある。

私は、物事を考える場合、できるだけ「トンビになったつもりで見る」ことを心掛けたいと思っている。それは、まさに自分の感情、経験をできるだけ排除して、冷静に大きな視野で見ることである。
例えば、コロナ禍でも、日本の政治家、官僚がやってきた「政治的視点」に強く基づき、科学的視点、データを軽視してきた状況も、顕著に「トンビの視点」が欠如していると思う。その結果が、ぶざまな施策、ぶざまなその場しのぎ、場当たり、試行錯誤の極み、自己都合に直結したと思われる。
「トンビになったつもりで見る」とは、現実には科学的視点、視野を重視するということである。

そういうつもりで、アフターコロナを考えると、今回のワクチンでコロナ禍を一掃できるかどうかは、大きなリスクを抱えているように感じる。地球規模、宇宙規模の視点で考えれば、仮に今回のコロナ禍を克服することができたとしても、似たような問題が再現することは、間違いなく来るのではないか?まったく同じ内容ではないだろうが、似たようなこと、想定外の不都合がいずれやってくることは、間違いなく起こるのではないか?

今、できることは、将来の再構築を急ぐことではあるが、今回の人類災難を踏まえて、次の危機再来にどう構えるかを考えることが重要である。

・・・考えながら書いてみたものの、まとまりがない状態を脱しきれない自覚。もっとじっくり考えてみる必要がある。(2021/7/11 井野)