先に、(1),(2)で、世相をにらみながら、どうにらむのが正しいのか、という方向に論点が向かいました。
私の、最も大きな興味は、そのあたりにあります。ものの見方、捉え方、認識の仕方といったあたりです。
少し考えた中間結果を、少し整理してみます。

1)人がある出来事、物事を、その人なりに認識するには、次の要素に分解してみる必要がある。なんでもかんでも分ければいいというものではないが、それぞれの要素にはいろいろな中身がある。それらが、全体的には組み合わせで最後の認識の結論に至るので、分解して考えないと、場当たり的になってしまう。
 (1)見る人の立脚点
 (2)見る対象、範囲
 (3)判断基準
 (4)認識(結果)
以下、それぞれを補足説明する。

2)見る人の立脚点
見る人の、よって立つ立場・思想等と、見方のスタンスをはっきりさせる。
視座、心眼(心で見る、目をつむってみる)、視力(眼力)

3)見る対象、範囲
見る対象をどの範囲で見るのかをはっきりさせる。
視野(広・狭)、視点(絞るか否か)

4)判断基準
見たものをどう判断するのか判断基準(価値観や価値基準)
(特に自分にとって、どれだけ身近か遠い話か)

5)上記の組み合わせによって、その人の見ている現象に対する意識、意見が確立する。それらの要素次第で、切実な認識か、しょせん他人事なのか、本気で頭にくることなのか、半分どうでもいいことなのか、といったことが決まってくる。

上記2)3)の現実の観察対象との間にモヤモヤのフィルターのような、不確定にするものが介在する。それらが、正しいことを見えなくする細工であったり、情報隠しや情報不足などにより発生する。ただでさえ、正しく見えないことが、意図的に「藪の中」の出来事にされてしまうということ。

★いずれ、全体図にして、もう少し分かりやすい整理をしてみたいと思っています。
要は、最初から感情的、感覚的に判断する癖をつけると、マスコミの扇動や、当事者の事実隠しに、まんまとハマってしまうしかないということです。
最近の騒がしい世相の多くには、そういうハマった状況が、あまりにも多いと感じます。
じゃあどうすればいいのか?ということを探して、少し小難しい整理をしようとしているわけです。
(2018/6/2 井野)