別に私自身が、急に宗教やその関連物に目覚めた訳ではない。ただ、なんとなく気になったので、少し考えてみた。

日本でもそうである。ヨーロッパに行ってもそうである。昔行った南インドでもそうだった。世界中どこに行ってもほとんどそうである。
たとえば、日本の京都などには驚くほど寺院が多いし、立派なものが多い。鎌倉などにも多くの立派な寺院が並ぶ。50年近く前、若い頃行った南インドでも都市の中心にはヒンズー教の立派な寺院があった。
昔の都市の中心には立派な宗教建築があることが多い。歴史の古い都市ほど、立派な教会や寺院がある。もちろん、新しい宗教の見慣れない建物を目にすることもすくなくない。
この事実は何を意味するものであろうか?

まだ十分整理できないが、何か奥深い意味があるように感ずる。人の心を惹き付け、その存在を確立するための宗教の仕組み、宗教の全体構成という視点で整理できるかもしれない。

二つの視点で考えたい。宗教を信じていく個人と、その宗教全体像という二つの視点である。本稿ではまず、そのうちの個人視点について考えてみる。

まず、それぞれの人が宗教に入っていくケースは多様であろう。ある程度の整理はできるのでは、と試みることにする。
それぞれの人が宗教に関わっていく経緯は、以下の三つがあるだろう。

一つ目は、自然に関わっていく場合である。そもそも生まれ落ちたときから、何らかの宗教環境に置かれ、自分で考えることもなくそれが当たり前といった感覚で、すんなりとその宗教世界に入り込んでいく場合である。
多くの日本人は歴史の流れの中で、なんとなく仏教に属している。家庭や家族によって信仰の度合いが異なり、その環境下で育つので、そのこだわり方も様々である。そして多くの日本人は一方で神道にも属していることが多い。歴史的に、神社・仏閣は共存し、日本の社会に根付いている。しかし、家族や家庭のつながりや核家族化などの社会、世相の変化の中で、その役割や信仰の程度などは大きく変化している状況もある。
そのように、家庭環境などによって成長過程で自然に組み込まれる場合である。
二つ目は、自らの体験や出来事から宗教に関わっていくケースである。一人の個人として、人生の荒波の中で、悩みや苦しみ、楽しみなどの多様な経験に中で、心の救いを求めて信仰にいたる場合である。自分の意思を持って、信仰に入っていく場合である。
三つ目は、家族、友人や知人などから誘われて、入っていくケースである。知っている人だけでなく、家庭を休日などに訪問して勧誘する宗教団体や勧誘者もかなりいる。知り合いから誘われる場合は、無碍に断り切れないことも少なくなく、なんとなくついて行って、成り行きでずるずると入っていくこともある。

宗教への入り口はいろいろあっても、そのときの本人の心の状況、気持ちの持ちようなどによって、宗教の中に進む場合と、入っていかない場合がある。

次に、それぞれの人の宗教に対する構え方で考えて見たい。
宗教が最も強く個人の心にしみこむのは、個人の悩み、心の不安定さ、恐れ、などの状況の時ではないだろうか。人間は誰でも、心が弱くなることがある。何かの助けを求めたくなることは、誰にでもある。
そういう心理から考えると、目に飛び込む景色、風景に驚きや大きさや輝きなどがあると、心に前向きの刺激を与えるのではないか。
つまり、宗教建築は、個人に対して安心感を与える舞台装置としての役割があると思える。そう考えれば、目を見張るような「荘厳な」建築物は、個人の信頼感、安心感、宗教心などをくすぐる小道具(いや大道具)としての重要な役割があるといえる。