昔の都市の中心には立派な宗教建築があることが多い。歴史の古い都市ほど、立派な教会や寺院がある。また斬新な新しい宗教関係の建物も目にすることもある。
これらの事実は何を意味するものであろうか?
判然とはしないが、何か奥深い意味があるように感ずる。人の心を惹き付け、その存在を確立するための宗教の仕組み、全体構成という視点で整理できるかもしれないと思う。
二つの視点で考えたい。一つは宗教に入っていく個人の視点であり、二つ目は宗教の仕組みや全体構成、道具立てといった視点である。一つ目はすでに述べた。本稿ではその二つ目について考えてみる。
宗教の仕組み、全体構成という視点で考える。ただ、これは宗教心を自覚しない私なぞが、今までの行き掛かりの人生経験だけを踏まえた考え(妄想?)の範囲を超えるものではありえない。

それぞれの宗教の発端は議論の対象にしない。その宗教を広げる性質やプロセスを考えてみたい。
その宗教を信じる信徒の数、拡がりをどう確保するか、どのように勢いづけるかということが大きな課題ではないか。
そういうストレートな疑問をぶつけると、たぶん当事者は即座に否定するだろう。なぜなら、それが本心、本音そのものであるからだ。たぶん、建て前通り、本人の問題、本人の心の問題を解決する立場にすり替えて、論点を変えるに違いない。
しかし、異なる宗教間の争いは、結果的には信徒の数、浸透度を競うものにならざるをえない。この本質的な問題は、歴史的な多くの出来事の根源になっていると思われる。
宗教がその成長過程で信徒増大を大きな課題とすることは疑いがない。
そう考えると、信徒の数確保のためには、人の心理をストレートに刺激する方法が手っ取り早い。人の心、信頼感、安心感、驚き、すごいと感じること、などをストレートに刺激するには、単純ではあるが、巨大な建造物、荘厳な様子、静かな佇まいなどが効果的なのである。斜めに構えて見れば、信仰心の深くない人の心をつかむために、そういう舞台装置が相当に有効だということだ。
このことは、人間の基本的、原始的な部分の反応を掴むもので、地球上の場所や、人種などをあまり問わないようだ。
そう考えるなら、ヨーロッパの立派な教会も南インドのヒンズー教の寺院も、京都や鎌倉の神社仏閣も、同じような動機と経緯で積み上げてきたものとして理解できる。
信徒を増やし、減らさないための舞台装置として、無条件に心を打つ立派な建物が有効なのである。もちろん、ただ立派な、巨大な建物だけで信仰心を引き留め、醸成するのではなく、補助装置としての役割を果たすということだ。単に立派な建物は、宗教建築以外にも、もちろん世界中に数多い。
面白いのは、仏教でも、神道でも、キリスト教でも、イスラム教でも、ヒンズー教でも、その他多くの宗教にも、共通的にこれが当てはまることだ。

残念ながら、宗教心の希薄な現在の私には、これ以上突っ込んだ想像はできない。しかし、この現象の根源に何かがある、感じはますます深まる。